日航機墜落事故から40年。「御巣鷹の守り人」が変えた、憎しみと断絶の物語

同僚のmiku(レポーター)から「これ、すごい話なんですよ」と渡された資料を読んで、正直言って胸が詰まった。日航機墜落事故から39年。毎年8月12日になると、JAL社員が土下座し、遺族が無言で通り過ぎる—そんな光景が続いているという話は知っていた。でも、その間に「御巣鷹の守り人」と呼ばれた一人の男性がいたなんて、恥ずかしながら全く知らなかった。

これからこの記事について、俺自身の考えや感情などを書いていくのだが、この記事は朝日新聞さんの以下の記事を読んで、そして事前にこの事件について現地へ飛んだ miku からのレポートを元に書かせていただいたことを、予め書いておきます。

朝日新聞記事

https://digital.asahi.com/articles/AST7Y3SQ4T7YUTIL00RM.html?iref=comtop_7_01

この記事を読んでわかる事

日航機事故後40年間続く「断絶」の実態

堀内邦夫さんという地元男性の驚くべき献身

憎しみから共存へ変化した人間関係の真実

企業と被害者家族の間に生まれた「声なき対話」

60歳になって思うのは、人と人の間に横たわる溝というのは、時間だけでは埋まらないということだ。特に、これほど深い傷を負った関係では尚更である。

私が衝撃を受けた「断絶」の現実

mikuの取材ノートによると、毎年8月12日の登山口での光景は、想像以上に生々しいものだった。

JAL社員が新品のスーツを泥で汚しながら土下座する。一方で遺族は一瞥もくれずに通り過ぎる。この光景を初めて知った時、私は思わず

これは辛すぎるだろう

と声に出してしまった。

なぜこんなことになったのか。答えは明確だ。1985年8月12日、JAL123便墜落事故—単発の航空機事故としては世界最大の犠牲者520名を出した人災だったからだ。

JAL123便墜落事故事故調査報告書を改めて読み直してみると、原因は7年前のボーイング社による圧力隔壁の不適切な修理。しかし、その後の点検でJALがこの欠陥を発見できなかった事実も重い。これは明らかに「防げた事故」だった。

私がITエンジニアとして20年以上システムの保守・運用に携わってきた経験で言えば、このような見落としは「人災」以外の何物でもない。システムの不具合を放置した結果、致命的な障害が発生するのと全く同じ構造だ。

一人の男性が変えた40年間の歴史

※この先に登場する人物名は、個人情報保護と安全を確保するために全て(仮名)で書かせていただくことをご承知おき頂きたい。

ここで登場するのが、堀内邊夫さん(事故当時56歳)である。地元上野村で代々林業を営む、ごく普通の男性だった。

彼を動かしたきっかけが、これまた胸に刺さる話だった。登山で息を切らしながら現場に向かう一人の老婆。「娘に会いに来たんです。でも、もう年だから、これが最後かもしれない...」。この涙ながらの言葉を聞いて、堀内さんは決意したのだ。

このままじゃいかん。わしが、みんなが安心して登れる道をつくらなきゃならん

これ以降の彼の行動は、常軌を逸している。いや、良い意味での「狂気」と言った方がいいかもしれない。

堀内さんが一人で行った作業(mikuの調査より):

  • 獣道同然の斜面をツルハシとスコップで切り拓く道路整備
  • 間伐材を使った数百段の木製階段設置
  • 滑りやすい箇所へのロープ設置と危険木の除去
  • 大雨で荒れた沢への石積みと簡易橋の架設

これを80歳過ぎまで、ほぼ毎日、一人で続けた。持ち出し費用は数百万円。誰に頼まれたわけでもない。

正直言って、私にはこんな献身的な行動はできない。家族からも「何やってるんだ」と言われるだろうし、体力的にも続かない。でも堀内さんは続けた。なぜか。

「金?そんなもん、考えたこともねえよ。遺族の人が『ありがとう』って言ってくれる。それが一番の報酬さ」

この言葉に、私は現代社会が失った何かを見た気がした。

「緩衝材」が生んだ奇跡的な変化

ここからが、この話の核心部分だ。

堀内さんという存在が、JAL社員と遺族の間に「緩衝材」の役割を果たし始めたのだ。彼はJALの人間でもなければ遺族でもない。ただの「地元の一個人」。この中立性が、両者にとって救いとなった。

遺族にとって堀内さんは、心を開ける相手だった。「堀内さん、今年も道がきれいになってるね。ありがとう」「娘の墓標の周りが、いつも花でいっぱいなのは、堀内さんのおかげだね」。

一方、JAL社員も堀内さんに救われていた。慰霊登山の際は必ず挨拶に行き、作業を手伝う若手社員も現れた。

そして、決定的な変化が起こる。

ある男性遺族の証言(mikuの取材より):「何年か経った時かな。堀内さんが『あいつらも、必死なんだよ』とポツリと言ったんです。それから、登山口で頭を下げる社員の姿を見ても、前のような怒りは湧かなくなっていた。…ああ、彼らも、彼らなりに背負っているんだな、と。そう思えるようになったのは、間違いなく堀内さんのおかげです」

これは「赦し」ではない。「共存」への第一歩だった。

私が考える「土下座」の意味の変化

床に手をつき深く頭を下げている紺色のスーツを着たビジネスマン
深くお辞儀をするビジネスマンのイメージです。AIが描いたイメージです

堀内さんは2019年に89歳で亡くなった。しかし、彼の遺志は確実に引き継がれている。NPOやJALのOB、現役社員が「守り人」の活動を続けているのだ。

そして重要なのは、JAL社員の土下座の意味が変わったことだ。単なる過去への謝罪から、未来への決意表明へ。これは精神論ではない。

JALは羽田に

安全啓発センター

を設立している。墜落機の垂直尾翼、歪んだ座席、遺品、そして死の直前に書かれた遺書—これらがそのまま展示されている。全グループ社員は入社時に必ずここを訪れ、事故の悲惨さを体感する研修を受ける。

これこそが、御巣鷹の地で誓う「安全」の原点なのだ。

私がwebライターとして5年間情報発信を続けてきて思うのは、本当に人の心を動かす話というのは、決して綺麗事では済まないということだ。この話も、単純な「和解物語」ではない。今も赦せない遺族がいるのは当然だし、その気持ちを否定すべきではない。

でも、憎しみがあっても共存はできる。その可能性を、堀内邦夫という一人の男性が39年かけて証明してくれた。

御巣鷹の尾根で風の音を聞いていると、様々な声が混じって聞こえてくるという。犠牲者の声、遺族の声、安全を誓う人々の声。それらすべてを包み込んできたのが「御巣鷹の守り人」だった。

この物語から私たちが学ぶべきは、人と人との間に横たわる深い溝も、一人の人間の純粋な想いと継続的な行動によって、必ず変えることができるということだ。それも、劇的な変化ではなく、本当に少しずつ、気づかないほどゆっくりと。

この記事を読んで分かったことと考えるべきこと

  • 人災事故の責任と継続的な贖罪の重要性
  • 第三者の存在が対立関係に与える影響力
  • 時間をかけた誠実な行動が人間関係を変える可能性
  • 企業の安全文化構築における具体的取り組みの必要性
  • 地域コミュニティの力と個人の献身が社会に与える影響

私たちの社会にも、解決困難に見える対立や断絶が数多く存在する。しかし、この「御巣鷹の守り人」の物語は、諦めることの愚かさを教えてくれる。一人の人間ができることは限られているが、その限られた行動の積み重ねが、やがて大きな変化を生むことがある。

堀内邦夫さんの撒いた種は、確実に「繋がり」という花を咲かせた。この事実を、私たちは決して忘れてはならない。


執筆者プロフィール

※この記事の執筆にあたり、貴重な取材データを提供してくれた同僚レポーターのmikuに深く感謝いたします。

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