2025年夏、広島で会える「生きた歴史」。原爆投下3日後に走った”被爆電車”が、俺たちに突きつける重い問い

広島の街を走る緑色の被爆電車。背景には原爆ドームが見え、「被爆電車が問う、生の証」という文字が書かれている。

※参考記事:https://digital.asahi.com/articles/AST892F10T89PITB00FM.html?iref=pc_life_top

ガタン、ゴトン……。

あんたは今、どこでこの記事を読んでいるだろうか。静かなオフィスか、騒がしい電車の中か。いずれにせよ、その日常が当たり前だと思っているなら、少しだけ耳を澄ませてみてほしい。

2025年の夏、広島の街に響くこの音。ただの路面電車の音じゃない。80年前、地獄の焦土と化した広島で、死に絶えたと思われた街の心臓を、再び動かした「鼓動」そのものだ。

私は桜田泰憲、60歳。北海道の羅臼町で生まれ育ち、今はしがないITエンジニアをやりながら、こうしてWebライターとして記事を書いている。先日、全国を飛び回る同僚のレポーターmikuから、「桜田さん、このデータ、どう思います?」と、大量の資料が送られてきた。テーマは広島の「被爆電車」。正直に言えば、北の田舎で育った俺には、広島の悲劇は教科書の中の出来事で、どこか遠い話だった。

だが、資料を読み解くうちに、そんな悠長な考えは木っ端微塵に吹き飛んだ。これは過去の話じゃない。今を生きる俺たち全員に、重い問いを突きつける、現在進行形の物語だったんだ。

この記事を読んでわかる事

なぜ、被爆電車が「奇跡の電車」と呼ばれるのか、その本当の理由。

原爆投下から、わずか3日で電車が走り出したという、信じがたい事実の裏側。

2025年夏、この電車に会い、乗るための具体的な方法と、絶対に知っておくべき注意点。

80年間、この電車を支え続けてきた人々の、壮絶なまでの情熱と意地。

絶望の淵で鳴り響いた、希望の走行音

1945年8月6日午前8時15分。説明するまでもないだろう。広島に、人類史上最初の原子爆弾が投下された。一瞬にして街は消し飛び、数えきれない命が灰になった。

機能が完全に停止した、死の街。誰もがそう思ったはずだ。

だが、信じられるか?

そのわずか3日後、8月9日のことだ。

ガタン、ゴトン……。

電車が、走ったんだ。

mikuの資料には、当時の広島電鉄の内部資料だという、黄ばんだ紙のコピーがあった。そこには「己斐(こい) – 西天満町(現・天満町)間、単線運転再開」とだけ、簡潔に記されていた。窓ガラスは吹き飛び、車体はボコボコ。そんな満身創痍の電車が、たった1kmにも満たない距離を走った。

これを読んで、俺は全身に鳥肌が立った。3日だぞ?ありえない。

俺たちITエンジニアの世界でも、大規模なシステム障害が起きれば、復旧に数日かかることはザラだ。だがそれは、空調の効いた部屋で、マニュアルを広げ、バックアップデータを探して、夜を徹して作業する話だ。

彼らはどうだ。昨日まであった家も、大切な家族も失ったかもしれない。食うものも飲む水もない、見渡す限り瓦礫と死体の地獄の中でだ。自分自身も被爆している。そんな極限状況で、彼らは会社に集まり、瓦礫を素手でどかし、曲がったレールをハンマーで叩いて直し、壊れた部品を他の車両から引っこ抜いてきて、電車を動かした。

正気の沙汰じゃない。

これはもう、使命感とか誇りとか、そんな生易しい言葉で片付けられる話じゃない。人間の「意地」そのものだ。

「街はまだ死んでいない」「俺たちの手で、もう一度動かしてやる」。この電車の走行音は、生き残った人々にとって、どれほどの希望になっただろうか。それは、ヒロシマの心臓が再び打ち始めた音だったに違いない。この事実を知った時、俺は恥ずかしながら、モニターの前でしばらく動けなくなった。60にもなって、知らないことが多すぎる。

今も走る「650形」という、生きた証人

春、桜が咲く広島の街を走る緑とクリーム色の路面電車。背景には原爆ドームが見える。
満開の桜と原爆ドームを背景に、レトロな路面電車が走る。春の穏やかな日差しが、平和な広島の街を包んでいます。AIが描いたイメージです。

この奇跡の主役が、今も現役で走っている「650形」だ。特に651号と652号。mikuの取材ノートには、この車両を整備する技術者の生々しい声が記録されていた。

「部品なんて、とっくに製造中止ですよ。だから、壊れたら作るんです。図面から、手作業でね」

冗談じゃない。80年前の機械の部品を手作りする?俺たちの世界じゃ考えられない。古いシステムを延命させる苦労は知っているが、ハードウェアそのものを自作するようなもんだ。歪んだ車体をミリ単位で調整し、老朽化した木製の床を一枚一枚、丁寧に補修する。

彼らを突き動かすのは、金や名誉じゃないだろう。

「この電車を、歴史を、俺たちの代で終わらせるわけにはいかない」

という、技術者としての、いや、一人の人間としての、燃えるような矜持だ。頭が下がるどころの話じゃない。

【2025年夏】あんたも、この奇跡の証人になれる

そして、この「被爆電車」に、俺たちも乗ることができる。平和学習のため、記憶を繋ぐため、毎年夏に特別運行が行われているんだ。

もし、あんたがこの夏、広島を訪れる機会があるなら、絶対に会いに行ってほしい。以下はmikuのデータと公式サイトの過去情報を基に、俺なりにまとめたものだ。

広島路面電車運行情報

🚃 広島路面電車 運行情報

桜田の補足付き完全ガイド
📅
運行時期
8月上旬~中旬の土日祝が中心
桜田の補足:7月上旬に広電公式サイトで発表される。逃すなよ。
🗺️
運行ルート
広島駅 原爆ドーム前 西広島(己斐)
桜田の補足:ドームの前を通過する時、車内の空気が変わるらしい。その瞬間を体験してみてほしい。
✉️
申込方法
往復はがきによる事前申込・抽選制
桜田の補足:デジタル時代に、あえてのアナログ。想いを込めて書いてみるのもいいかもしれん。
💰
費用
原則無料

ただし、維持のための寄付はお願いしたい。この奇跡を未来に繋ぐための投資だ。

【絶対に忘れるな!俺からの大事な注意点】

いいか、よく聞け。この電車には冷房がない。80年前のままなんだ。

真夏の広島を舐めちゃいけない。俺のような北海道育ちの人間なら、5分で茹で上がる。うちわ、タオル、凍らせたペットボトル。考えうる限りの暑さ対策は、絶対に、絶対にやっていけ。熱中症で倒れたら、元も子もないからな。

抽選に外れても、落ち込むな。沿道で待っていればいい。近代的なビル群の中を、深緑色の古い車体が走ってくる。その姿を、ただ自分の目に焼き付けるんだ。それだけで、あんたの世界は少し変わるはずだ。

この記事を読んで分かったことと考えるべきこと

俺がmikuのデータと格闘し、この記事を書き終えて分かったことがある。

それは、被爆電車が伝えようとしているのは、単なる戦争の悲惨さだけではないということだ。あれほどの絶望からでも、人間は立ち上がれるという、圧倒的な/

「生の証明」。

それが、この電車の本質なんだ。

そして、俺たちに突きつけられる問いは、あまりにも重い。

「平和な日常が当たり前だと思っていないか?」

「その平和を、あんたたちは未来へ繋いでくれるのか?」

俺たちが生きるこの時代、ネットを開けば安っぽい言葉が溢れている。だが、この電車の前では、どんな言葉も色褪せるだろう。ガタン、ゴトンという無骨な鉄の音だけが、80年の重みを乗せて、真実を語りかけてくる。

還暦を過ぎた俺に、今さら何ができるか。大したことはできやしない。

だが、まずは「知ること」。そして「忘れないこと」。自分の言葉で、誰かに伝えること。mikuからデータを受け取った俺がこうして記事を書いているように、あんたも、あんたのやり方で、この物語を誰かに繋いでいってほしい。

その小さなバトンリレーの先にしか、俺たちの未来はない。俺は、そう確信している。

謝辞:

本稿を執筆するきっかけと、貴重なデータを提供してくれた同僚のmikuに、この場を借りて心から感謝したい。ありがとう。

筆:桜田 泰憲

取材:miku

#被爆電車 #広島 #ヒロシマ #路面電車 #原爆の日 #平和学習 #歴史を忘れない #2025年 #広島電鉄 #復興のシンボル

「可哀想に、で終わらせんでください」被爆80年の魂の叫び。IT技術者にできる記憶の継承とは。

広島平和記念公園で、若い女性が原爆死没者慰霊碑と原爆ドームを背景に、静かに手を合わせて祈っている。

筆:櫻田 泰憲

2025年8月。私のデスクに、同僚の全国レポーターmikuから分厚い取材データが届いた。出張先は広島。彼女が酷暑のなか記録してきた「被爆80年 平和記念式典」のレポートだ。ITエンジニアである私への依頼は、いつも通り「データの整理と分析」。だが、モニターに映し出される文字と写真を追ううちに、私はいつものように冷静ではいられなくなった。

蝉の声、鐘の音、そして静寂。データの中にあった「みなさんの心の中で生き返る」という一節が、私の胸に突き刺さって離れない。これは、単なる追悼の言葉ではない。80年という歳月を経て、我々一人ひとりに突きつけられた、あまりにも重い「問い」そのものではないか。

私はWebライターでもある。このmikuの生々しい記録と、そこから溢れ出す感情を、ただのデータとして処理することは許されない。60年生きてきた一人の男として、そして技術者として、この「問い」にどう向き合うべきか。これは、その格闘の記録である。

この記事を読んでわかる事

被爆80年式典の、報道では伝わらない「現場の空気感」。
「心の中で生き返る」という言葉が持つ、本当の意味と重み。
60歳のIT技術者が見た、「記憶の継承」という課題への向き合い方。
平和を「祈る」だけでなく、自ら「創る」ために我々ができること。

「静かすぎる」式典と、核抑止という名の茶番

mikuのメモには、こうある。

「とにかく静かだった。スピーチの声と蝉の声以外、何も聞こえない。その静寂が、かえって80年前の阿鼻叫喚を想像させて、恐ろしかった」。

私も北海道の田舎町、羅臼の出身だから分かるが、自然の音しかしない静けさというのは、時として人間の心を裸にする。平和記念公園を埋め尽くした数万の人々が、何を思ってあの黙とうを捧げたのか。その光景を想像するだけで、胸が締め付けられる。

式典で、広島市の松井市長は今年も力強く「核抑止論からの脱却」を訴えたという。全くもってその通りだ。「核があるから平和が保たれる」などという理屈は、システムエンジニアの視点から言わせてもらえば、致命的なバグを抱えたまま稼働している欠陥システムに他ならない。いつか必ず、たった一つの誤作動でシステム全体がクラッシュし、全てが破滅する。そんなことは、少し考えれば分かる理屈のはずだ。

しかし、現実はどうだ。世界を見渡せば、その「欠陥システム」に莫大な予算をつぎ込み、自国の安全を委ねている国々ばかりではないか。式典に参列した各国の代表者たちは、この広島の祈りを、一体どんな思いで聞いていたのだろうか。その腹の内を思うと、私はやりきれない怒りを感じる。彼らにとって、この式典は平和への誓いの場なのか、それとも自国の政策を正当化するためのアリバイ作りに過ぎないのか。

形だけの出席はいらない!この参列者の中に、何人が本当の平和を求めているのだろう

魂の叫び。「心の中で生き返る」は、決して慰めの言葉ではない

今回のテーマである「みなさんの心の中で生き返る」という言葉。 これは、美しい追悼の詩ではない。私は、これは亡くなった数十万の魂からの「要求」だと解釈している。

mikuが取材した、ある被爆者の方の言葉が忘れられない。

「『可哀想に』で終わらせんでください。わしらがなぜ、あんな目に遭わにゃならんかったのか。そのことを、あんたたちの世代が考え抜いてくれにゃ、わしらは浮かばれんのよ」。

これだ。これこそが、あの言葉の真意だ。 彼らは、同情してほしいわけじゃない。自分たちが経験した地獄を、自分たちの苦しみを、単なる悲劇の物語として消費されることを、何よりも恐れているのだ。 「心の中で生き返る」とは、「私たちの苦しみを追体験し、なぜそれが起きたのかを考え、二度と繰り返さないための具体的な行動を起こせ」という、世代を超えた魂の命令なのだ。

この言葉の重みを理解した時、私は身震いがした。生半可な気持ちで「平和が大事ですね」などと、口が裂けても言えない。我々は、彼らの無念を、苦しみを、そして未来への切なる願いを、自らの血肉として引き受けなければならない。そう、これは「責任」の話なのだ。

IT技術者として、父親として。「記憶の継承」という名の闘い

では、その責任をどう果たすのか。 被爆者の平均年齢は85歳を超えた。直接、話を聞ける時間は、もうほとんど残されていない。風化との闘いは、ここからが本番だ。

mikuのデータには、近年進んでいるというデジタルアーカイブの取り組みも記されていた。AIによる証言の再現、VRによる被爆体験。素晴らしい試みだと思う。ITエンジニアとして、こうした技術が記憶の継承に貢献できることは、大きな希望だ。

だが、私は同時に強い危機感も覚える。 技術は、あくまでツールだ。どんなにリアルなVRを作っても、どんなに賢いAIを開発しても、それを受け取る我々人間に「魂」がなければ、それはただの精巧な見世物で終わってしまう。大切なのは、そのデジタルデータの向こう側にある、人間の痛みや温もりを想像する力だ。

私にもは甥っ子がいる。彼らの世代は、戦争を肌で知る人間が一人もいなくなる時代を生きることになる。その時、広島や長崎の出来事は、教科書の上の、無味乾燥な文字列になってしまうのではないか。

そうさせないために、我々大人が何をすべきか。 技術者として、私はもっとやれることがあるはずだ。単にデータを保存するだけではない。そのデータが持つ「意味」や「文脈」を、どうすれば次の世代の心に直接届けられるのか。対話を生み、議論を巻き起こすようなプラットフォームを構築できないか。エンジニアとしての私の頭脳が、今、猛烈な勢いで回転し始めている。これは、私の仕事なのだと。

mikuがまとめてくれた、この年表を見てほしい。

年代 出来事 概要
1945年8月6日 原子爆弾投下 午前8時15分、広島市に世界で初めて原子爆弾が投下される。
1949年5月 広島平和記念都市建設法 広島市を平和記念都市として建設することを目的として公布・施行。
1952年8月6日 広島平和都市記念碑(原爆死没者慰霊碑)除幕 「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」の碑文が刻まれる。
1955年8月6日 第1回原水爆禁止世界大会 広島市で初めて開催。核兵器廃絶を求める国際的な運動の起点となる。
1996年12月 原爆ドーム、世界遺産に登録 ユネスコの世界文化遺産に登録され、人類全体の負の遺産として保存されることに。
2016年5月27日 オバマ米大統領(当時)の広島訪問 現職のアメリカ大統領として初めて広島平和記念公園を訪問し、献花。
2022年2月 ロシアによるウクライナ侵攻 ロシアが核兵器の使用を示唆し、世界の核軍縮の機運に深刻な影響を与える。
2025年8月6日 被爆80年

核兵器の非人道性が改めて問われる中、記憶の継承が大きな課題となる。

出典: 広島市公式ウェブサイト

広島平和記念資料館ウェブサイト等の公開情報を基にmikuが作成

このタイムラインを見ると、平和への歩みがいかに脆弱で、危機と隣り合わせだったかが分かる。そして今、我々は再び、重大な岐路に立たされているのだ。

この記事を読んで分かったことと考えるべきこと

広島被爆80年という節目は、単なる過去の記念日ではない。それは、この記事を読んでいる「あなた」に、未来への責任を突きつける、現在進行形の出来事だ。

【分かったこと】 mikuの取材データを通して分かったのは、

広島の祈りが、80年経った今もなお、切実な「叫び」であり続けているという事実だ。

「平和」という言葉の裏にある、想像を絶する人々の苦しみと、それでも未来を信じようとした強い意志。それが、広島の根底には流れている。

【考えるべきこと】 では、我々はどうするか。 平和を誰かが与えてくれるのを待つのか。それとも、自らの手で創り出す努力をするのか。 「心の中で生き返る」という言葉を、あなたはこれからどう受け止めるだろうか。被爆者の魂を、あなたの心の中で本当に「生き返らせる」ために、明日から具体的に何ができるだろうか。近所の人とこの話題について話すことか、関連書籍を一冊読んでみることか、あるいは子どもに自分の言葉で伝えてみることか。

行動なき祈りは、自己満足に過ぎない。 私は、このmikuのデータと私の分析を、単なる記事で終わらせるつもりはない。技術者として、そして一人の人間として、私にできる行動を始める。まずは、社内の若手エンジニアを集めて、このテーマで勉強会を開くことからだ。

それが、私の「応答」だ。

最後に、この貴重な記録を託してくれた同僚のmikuに、心からの感謝を捧げたい。ありがとう。君のデータは、私の中で確かに「生き返った」。

参考にした記事:80年前に原爆が投下された8時15分 広島で黙禱

筆:櫻田 泰憲

レポート:miku

関連サイト:

https://sensou-heiwa.xyz/sensou-heiwa